
“お上が作った,男たちが作りあげた,官撰の国史,あれだけが人生と思うかね” (田辺聖子「田辺聖子全集 第8巻」)
作家としての生涯を,“大阪”の“女の物書き”として,“庶民”の視点から書き続けた田辺聖子。
その本格的なデビューは,1964年(昭和39年)に芥川龍之介賞の第50回(昭和38年下半期)の受賞による。
高校生 村上春樹が神戸の古本屋をめぐり,京都の古書肆で古文書櫃が林屋辰三郎にからみつき,「兵庫北関入舩納帳」の編纂へとつながる年は,田辺の受賞のニュースで明ける。
同人誌「航路」第7号に掲載された「感傷旅行」の冒頭での主人公ヒロシの独白。
“それまでに彼女はずいぶん,数々の恋愛(もしくは男)を経てきており,ぼくらのなかまではマトモに扱うものもないくらいだった”
“で,彼女の今度のあいてが党員だとわかると,みんな,オオ! とうなずいた,珍種の好きな森有以子がコレクションのなかに加えていないのは,坊主と党員だけだったから”
四,五流の放送台本屋を自称するヒロシと有以子。線路工夫の党員ケイに惚れてしまった有以子は,党員がお題目とする本に飛びつくも,チンプンカンプン。そこでヒロシに助けをもとめる。
“プレハーノフって何なの?”
“いいから,いいから……早いとこ教えてよ,プ,レ,ハ,ノ,フ!”
“あッ! 人の名なの? つべこべいわずに,知ってるんなら教えてくれたっていいじゃないのさ,それからなんとかいったっけ……弁証法的唯物論とさ,唯物論的弁証法とはどう違うの?”
ヒロシが,“バストイレ付き”と“トイレバス付き”みたいなものだろうと回答するや否や,バカ!と怒られる。
“それからトロキストて,いいほう? わるいほう?”
選考委員の石川達三は選評で“軽薄さをここまで定着させてしまえば,既に軽薄ではない”と述べ,“音楽で言えばジャズのような,無数の雑音によって構成された作品”と,田辺作品から鳴りひびく音感を示す。
田辺の受賞につづく,第51回芥川龍之介賞(昭和39年上半期)を受賞するのが,六全協が惹起した党員の衝撃を描いた,柴田翔の「されど われらが日々-」である。長い手紙に綴った内省的,自己批判的な告白がしめる柴田の作品に対し,田辺の受賞作では,有以子のドタバタ失恋劇が,ヒロシの第三者的視線によって台本が進行していく。
党員ケイは有以子への屁理屈を放つとき,きまって“べき”を連発すする。
“おれは不幸と悲惨を意識して生きるべきだ”
“きみも革命のイメージを持つべきじゃねえか!”
党員ケイは,「ノルウェイの森」の緑が見抜いた通りの男なのである。
“そのとき思ったわ,私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって,新入生の女の子を感心させて,スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ,あの人たち” (村上春樹「ノルウェイの森(下)」)
おきまりの“大衆のため”をふりかざすケイに対し,有以子も緑と同じセリフを叫ぶ。
“あたしも大衆のひとりじゃないの,ひとりの人間も救われないような人が,数千万の大衆が救えるの?”
後に大阪芸術賞を受賞した際のコメントで,田辺は“正面切って,人生いかに生きるべきかなんて,大阪人には恥ずかしくて書かれへん” “大阪には遊びの文化が発達して人生,文化にもゆとりがある”と述べ,東京については“さむらい文化”と評し,さむらい文化の目線で大阪を捉えることに異を唱える。(「田辺聖子全集 別巻1」)
「されど われらが日々-」,「ノルウェイの森」ともに,長文の手紙が交わされ,憂悶の情が告白されるのであるが,田辺の手にかかっては,手紙なんぞはおかまいなし。思いをしたため投函することすらヒロシは有以子に許さない。
“苦労して彼女のでんとしたおしりの下から手紙をひっぱり出した。彼女がそれをくしゃくしゃにねじてるので,ケイのものだとわかったのだった”
“ケイに手紙なんか出すなよ”
党員ケイが有以子をけむに巻き,緑がワタナベに恨み辛みをぶちまけたように,党員が“庶民にわからない言葉をふりまわして”いた時分は,同人誌などに,党あるいは党派性と自己との“からみあい”を描いた作品の刊行が相次いだ時代でもある。
田辺が仲間と「航路」を創刊した1960年(昭和35年)には,明治大学新聞に発表された倉橋由美子(高知県香美市出身)の「パルタイ」が党との距離感を抽象的な作風で問い,同人誌「VIKING」に連載された“苦悩教の教祖”高橋和巳の「憂鬱なる党派」が完結する。党をめぐる小説については,あるべき正しさへの観念的な追求とその葛藤,挫折を表現した作風が一定の支持を得た時代にあって,田辺の作品は相当の衝撃を世間に与えたのかもしれない。
「航路」にしても「VIKING」にしても,両誌とも瀬戸内海に面した大阪あるいは神戸を拠点とした同人が多く,自らのペンで,海の道を拓いていく意志が込められているのであろうか。
大阪に生まれ育った田辺であるが,父方は広島県福山市の出身である。
小説家 田辺の原点は,文学少女として読書に熱中し,小説を書くことが学業に直結すると期待した女学生時代に遡る。
1944年(昭和19年)樟蔭女子専門学校国文科に入学する。校長は伊賀駒吉郎である。
私学教育に後半生を捧げた伊賀が,開校準備のため,自ら神田神保町で渉猟し,書籍を揃えた図書室の存在も,田辺が樟蔭を志望した背景なのかもしれない。
伊賀校長の薫陶を受けた田辺は,第2学年の年の暮れに父を失い,2ヵ月余り後には,学生から“親とも慕われ”“若者の理解者”とも称えられた伊賀も他界する。
田辺のなかで,伊賀の臨終際と父の最期が重なりあう。
“あの不幸であった父の最期と思いくらべ,父が先生になり,先生が父になり,臨終の息使いが苦しそうであったと語られると,父の苦しい息が耳元で聞こえ,私は歯をくいしばって涙をのみこんだ”(田辺聖子「田辺聖子 十八歳の日の記録」)
ともに創立に尽力し初代校長を兼務していた樟蔭学園と甲陽学院により,伊賀の合同葬は営まれた。
(つづく)
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