
式子内親王と法然上人の忍ぶ恋の舞台とも伝わる生口島。
石丸晶子が島の伝承にもふれた「式子内親王伝 面影びとは法然」により,第1回紫式部文学賞(宇治市及び宇治市教育委員会主催)を受賞した1990年(平成2年),源氏物語「匂宮三帖」と「宇治十帖」を現代的な読み物として再構成した「新源氏物語 霧ふかき宇治の恋」が刊行される。
与謝野源氏,谷崎源氏などと並び称される“田辺源氏”がここに完結する。
“紫式部は漫然と物語の筆をとったのではない。(中略)<実はそうなんだ,よくも悪しくも,小説の中にこそ,人生の真実はある>と源氏にいわせている”
“お上が作った,男たちが作りあげた,官撰の国史,あれだけが人生と思うかね。(中略)あんなものは世の中のほんの一部にすぎないんだよ。世間の男や女たちの運命,心ざま,そのたたずまい,見るに飽かず,聞いて心にとどまることを,のちの世にも伝えたい,そう思って書きとどめたのが小説というものだ”(田辺聖子「田辺聖子全集第8巻」)
自らの源氏物語観について語った田辺聖子は,“物語文化至上宣言”を高らかに発する。
石丸と同様に田辺も,式子内親王の和歌“玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする”について,“日本人の恋歌として,最高クラスの民族遺産である”と絶賛する。(「田辺聖子全集 別巻1」)
“わが命よ,絶えるなら絶えてしまえ。このまま生き永らえていれば,秘めた恋をおしかくす力が弱まるかもしれぬゆえ”(「恋する罪びと」)と現代語に訳す田辺によると,内親王は“ただ一つの,秘めたる恋,忍ぶ恋,明かさぬ恋をふかくきわめ”,これが恋歌として映しだされているとのこと。
その面影びとは,田辺によれば法然上人にはあらず。
“そう,何をかくそう。
定家はまだ見ぬ内親王に,恋してしまったのである”
この藤原定家の秘めたる思いが,内親王にも通じ,二人の忍ぶ恋が人知れずはじまる。
“いかにしていかに知らせむ ともかくも いはばなべての言の葉ぞかし”
定家は,どのようにして思いを内親王に告白すればよいのかを思案する。
こうして“定家の執念は,人知れず凝り固まってゆく”
一方の内親王。
“長い恋のうちに,内親王のお歌も凄艶に深まっていった”
“手も取られぬ恋,御簾をへだてて言葉もなく,熱い思いを交(かわ)すだけの恋,それゆえに双方の執念は強くなりまさる”
病を発した内親王のもとへ,定家は日参するも,容体は一向に回復の兆しがみられない。
“定家の憂悶(ゆうもん)はただごとでない”
しかし,面影びとの願いは通じず,内親王は逝去。
“このころ定家の日記に記事はない。ただそのあと内親王のお墓に怪奇が伝えられた。形も分かたぬまで,ひしとつたかずらが這いまとうという。払っても取り捨ててもなお,お墓にまつわりつくかずら”
“世の人は定家の執念が凝ったと噂し,いつしかそれは<定家かずら>と呼ばれた”
初冬の京でのこと,旅の僧が雨宿りをした処に女があらわれ,蔓のからみついた墓へと導く。
定家の内親王への執念が葛となって,内親王の墓にからみついているという。
僧が墓前で読経すると,蔓は解けてほどけた。
女は内親王の御霊で,これにより成仏がかなった。
田辺は“<死>の対極にあるのは<生>ではなく<恋>である”という。
“<恋>は<死>と縺れあい,絡みあうとき,いっそう先鋭的となる”
“そして<恋>が<生>に合流し,滝となりしぶきをあげてなだれ落ちたとき,それは生々たるエネルギーとなって芸術を生み出す” (以上,田辺聖子「恋する罪びと」)
法然上人との忍ぶ恋は,生口島の伝承ともなり,藤原定家との秘めたる恋は,式子内親王の御霊に,葛蔓となって“からみつき”,金春禅竹の謡曲「定家」を生み出し,中世の遊芸文化をいまに伝える。
(つづく)
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