
1985年(昭和60年)7月9日,広島県との分水協定にもとづき,沼田川を水源とする浄水を受けて,慢性的な水不足に抜本的な解決が図られた弓削島。この“友愛の水”の広島県側の分水点となるのが生口島(尾道市)である。
一方,自転車愛好家のあこがれる「ゆめしま海道」のスタート地点となる岩城島。
愛媛県側で分水の受入れ口となるこの島へと,生口島からの海底送水管がのびる瀬戸の海上では,フェリー航路が所要時間5分で結んでいる。
岩城島,その先の生名島,佐島,弓削島へと,水とサイクリストを結ぶ生口島には,ある悲恋の伝承がある。
島の東南端に位置する仙容山 光明三昧院(光明坊)は,聖武天皇の発願により創建されたとされる生口島最古の寺院である。
弓削島と同じく,後白河法皇の長講堂領として,後に皇女 宣陽門院覲子内親王に引き継がれ,その女院号に由来するとも伝わる山号を冠する,この真言宗の寺院には,浄土宗の開祖 法然上人にまつわる寺伝がある。
“寺には,柏槙の大樹の陰に,法然,如念,松虫,鈴虫の四基の墓碑がひっそりと眠り,如念の墓には「後白河皇女」という文字が刻まれているという”
“如念の名は「承如法」という式子の出家名を想起させる。そして寺伝には,後白河法皇の皇女 如念が松虫,鈴虫なる二人の官女をつれてこの寺に寓居。法然も如念の師として逗留したとしるされているそうである”
1207年(建永2年)に生じた“建永の法難”により,京から土佐へと配流となる法然上人は,赦免により瀬戸内海の塩飽諸島へと行き着く。
法然上人に思慕の念を抱く後白河法皇の皇女が,後を追って瀬戸内海へと船出するも難破。生口島へと漂着した皇女は,光明坊に入る。
“法然はこれを伝え聞き,即刻光明坊に赴いて皇女と対面。乞われるままに「如念」の出家名を与えて彼女を出家させた”
“そして法然は,別れにのぞんで自分の姿と皇女の姿を木像に刻み,形見としてこれを皇女に与えて島を去っていった”
法然上人は島を発つにあたり,柏槙の杖を光明坊の庭に突きさし,仏法の弘通を祈ったところ,杖が根付いて巨木へと変じたと伝わる。寺には,鎌倉初期の創作とされる本尊阿弥陀如来(国指定重要文化財)とともに法然上人の木像と,島で出家したとされる皇女 式子内親王の木像が安置されている。
光明坊に伝わる木像と,法然,如念の五輪石塔婆。
生口島は,法然上人と式子内親王との忍ぶ恋にまつわる伝承が息吹く。
久安5年(1149年)生まれの式子内親王は,53年の生涯で詠んだ和歌のうち,400首ほどがいまに遺されている。
代表歌として思い浮かぶのは,藤原定家が撰者とされる小倉百人一首 第89番の恋歌であろうか。
“玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする”
日本文学研究者 石丸晶子は,式子内親王の数多い和歌のなかでも,この歌が秀逸であると評する。
“私はこの歌にふれるごとに,定家が,当時何千首あったかもしれない式子の歌のなかから,彼の選になる『小倉百人一首』のために,この一首をえらんだという事実に打ちのめされる”
“まことに,これは絶唱の名にふさわしく,もし只一つだけ式子の歌をえらぶとすれば,これをおいて他にないであろう”
恋歌を多く詠じた式子内親王。その忍ぶ恋の相手は誰なのか。
1990年(平成2年)京都府宇治市のふるさと創生事業の一環として創設された紫式部文学賞。日本文学の伝統継承と発展を目的として,女性作者による文学作品を選考対象としている。その第1回受賞作品が,石丸晶子「式子内親王伝 面影びとは法然」である。
真宗高田派総本山 専修寺(三重県津市)が所蔵する,親鸞聖人の自筆による法然上人の遺文集「西方指南抄」(国宝)には,法然上人の消息として「「シヤウ如ハウ」へつかわす御文」が所収されており,“承如法”を法名とする式子内親王にあてた手紙(返信)であると指摘する説がある。
自らの臨終をさとった式子内親王が法然上人に宛てた手紙への返信は,内親王の願望を叶えるものではなかった。石丸による返信の現代語訳によると
“御病気ただならぬ御様子を伺い,それは大変なことになったなどと思っております(中略)お招き頂きましたとおりに(中略)あなたのところに参上すべきであるのですが”
“よくよく考えてみれば,究極のところ,この世での対面はどうでもよいことです”
“生死のあいだを考えましても,いつまで生き続けられるのか,誰にも分りません。たとえ久しい歳月だと申しても,過ぎてみれば夢幻にひとしく,幾程もないみじかい一生でしょう”
阿弥陀浄土での再会を信じるよう“シヤウ如ハウ”にさとし,参上を思いとどまった心情を述べた後,法然上人は擱筆する。
“お招き頂きましたのに参上しないことの申し開きをいたしたく思いますままに,つい余りにも長いお手紙になってしまいました”
“もし余程弱っておられるといたしましたら,このお手紙は余りに長すぎます”
“あなたのお気持ちを承り,何となくあなたがしみじみと愛しく思われ,重ねてまたこのような追伸をしるしました” (以上,石丸晶子「式子内親王伝 面影びとは法然」)
式子内親王の面影びとを藤原定家とする説に対し,法然上人と捉える石丸は,生口島を訪れて島に受け継がれる法然上人と式子内親王にまつわる伝承についても,自著で紹介している。
史実はいかにあろうとも,生口島は法然上人との由縁にことかかない。
皇女 如念の機縁から,光明坊への後白河法皇の恩寵は厚く,勅額が下賜されるとともに,生口南の庄の荘園が寄進される。以来この土地を“御寺”と称し,現在にいたる。
時代は下って明治維新後,新たに名字をつけるにあたり御寺の住民は,法然上人ゆかりの東山大谷にあやかり,“大谷”姓を名乗る者が多い土地柄ともいわれている。
光明坊の北方の瀬戸田には“法然寺”があり,寺伝によると法然上人は,皇室との縁が深い光明坊に寝泊まりすることを畏れ多いとして,法然寺を住房とし,光明坊へと通ったとのことである。
浄土宗開宗から850年。阿弥陀浄土で相まみえた式子内親王と法然上人の五輪石塔が,いまも光明坊にたたずむ。
1201年(正治3年)1月25日,式子内親王が逝去。
11年後の1212年(建暦2年)法然上人が80歳で往生を遂げたのも,1月25日のことであった。
(つづく)
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