弓削島を含む上島諸島は,古くから瀬戸内海水運の要衝ではあるものの,水源に限りがあるため,取水の質・量ともに恵まれず,給水制限が実施されるなど,慢性的な水不足に直面してきた。

戦後に至り,海水の淡水化,広島県側からの給水船による買水などの施策を講ずるも,水不足の抜本的な解決は図れなかった。

この事態を解決するため,打ち出された施策が“越県給水”。上島諸島の水不足対策に向けた本格的な動きが始動する。

愛媛県知事が広島県知事に対し,広島県側から上島諸島への分水を要請したことを受けて,関係町村が上島諸島上水道事業推進協議会を設立する。徳仁親王が弓削島に上陸された日の1年後,1982年(昭和57年)7月9日のことである。

この分水事業の水源となるのが,沼田(ぬた)川。鷹ノ巣山(東広島市と安芸高田市の境界)を水源とし,三原市で瀬戸内海に注ぐ,流路延長47.8㎞の河川である。

愛媛県側と同様に,水道水の安定的な確保が求められていた,広島県三原市,尾道市などの陸地部,因島,生口島などの島嶼部に給水するため,沼田川水系椋梨ダム(東広島市)を水源とする沼田川水道用水供給事業が,1977年(昭和52年)に運用を開始する。
この事業により供給される水道水を,生口島から分水し,海底送水管を通り,岩城島,生名島,佐島を経て,弓削島まで送水する総事業費およそ50億円の上島広域簡易水道(離島)施設整備事業である。

3年の工期を経て送水管敷設,水道施設等が完成し,三原市にある浄水場でろ過・滅菌処理された浄水が,瀬戸内海の島伝いに弓削島へと給水されるその日,弓削島では通水記念式典が開催される。“友愛の水”と命名された広島県からの浄水が初めて給水される,上島諸島にとって歴史的な日は,1985年(昭和60年)7月9日。

徳仁親王の弓削島へのお成り(1981年(昭和56年))から続く7月9日の奇縁について,「弓削町誌」は次の通り率直に言い表している。

“よく昔から,二度あることは三度あるといわれているが,佳いことが三度も続くと実に嬉しい”

さらに慶びは続き,宮中で毎年正月に催される“歌会始の儀”。広く一般からの詠進が募られる短歌のお題が,昭和58年“島”(昭和57年1月発表),昭和61年“水”(昭和60年1月発表)とされる。

徳仁親王殿下お歌

“雲間よりしののめの光さしくれば瀬戸の島々浮き出でにけり”(昭和58年歌会始)

“オール手に艇競(ていきそ)ひ行く若人の影ゆれ映るテムズの水に”(昭和61年歌会始)

水運の“島”に,“水”が運ばれてきた島民の歓喜の声を聞し召されたのであろうか。

(つづく)

文:穂積 薫


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