英文学を専攻し修士論文の作成がまたれる主人公が,古本屋で一冊の本にからみつかれることから展開していく小説「されど われらが日々-」により,柴田翔が第51回芥川龍之介賞を受賞したのは,1964年(昭和39年)。この年,高校生党員となった佐野が描かれている受賞作とは異なり,政治的活動とは縁遠く,からみつかれたかのように英文小説に傾倒する高校生活をはじめた人物がいる。

兵庫県立神戸高等学校に入学した村上春樹は,自著「職業としての小説家」で過ぎし日々を述懐する。

“高校時代の半ばから,英語の小説を原文で読むようになりました。とくに英語が得意だったわけじゃないんですが,どうしても原語で小説を読みたくて,(中略)神戸の港近くの古本屋で,英語のペーパーバックを一山いくらで買ってきて(中略)片端からがりがり乱暴に読んでいきました”

学校という“制度”があまり好きになれず,10代から“燃えさかる窯にスコップで放り込む”ように,様々な種類の書物を貪り読んだ村上。読書体験を通じて,視野が相対化し視点が複合的になると,“自分という存在を何か別の体系に託せるように”なり,“世界はより立体性と柔軟性を帯びて”くる,という。

立体性と柔軟性を具有した世界の重要性を指摘する村上は,“個人とシステムとがお互いに自由に動き,穏やかにネゴシエートしながら,それぞれにとって最も有効な接面を見出していくことのできる場所”として“個の回復スペース”の必要性を訴える。

“言うなれば「個」と「共同体」との緩やかな中間地域に属する場所です。そのどのあたりにポジションをとるかは,一人ひとりの裁量にまかされています”

1960年代末期の学園紛争の嵐が吹きまくる時代に大学生として過ごした村上は,学生運動に関しても「個」と集団との間で,自己の裁量で立ち位置をはかる。

“セクトには加わりませんでしたが,基本的には学生運動を支持していたし,個人的な範囲でできる限りの行動はとりました”

もっとも,内ゲバによる被害者が生じるに及んで,村上は学生運動のあり方に幻滅をおぼえるようになる。

“激しい嵐が吹き去ったあと,僕らの心に残されたのは,後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり,美しいメッセージがあっても,その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が,モラルの力がなければ,すべては空虚な言葉の羅列にすぎない”(以上「職業としての小説家」)

「されど われらが日々-」において, “私たちに自我が不在であること,私たちは空虚さそのものであるという” 節子の告白が想起される。

このような嵐を経験した後,村上は,本,音楽,映画の世界――“より個人的な領域”へとポジションをとるようになる。

大学進学にあたり,当初は英文科を目指したものの,映画演劇科へと志望を変えた村上は,卒業論文「アメリカ映画における旅の思想」を提出して,大学という制度から7年かけて離脱することになる。演劇博物館で映画シナリオのバックナンバーを読み,“一週間くらいででっちあげた”卒論に対し,指導教授から文章をほめられ“何か書いてみたら”とすすめられる。

日本近代文学の研究者 明里千章は「村上春樹の映画記号学」において,村上の卒論について次のように評する。

“故郷の芦屋を離れて以来の,地球上を東西南北に旅して過ごすその後の人生を,卒業論文のテーマが暗示していたのだろうか。いやむしろ,旅をせざるを得ないという想いが卒業論文に「旅」というテーマを引き寄せたのかも知れない”

“地球上を東西南北に旅して過ごす”人生は,村上の代表作「ノルウェイの森」の冒頭にも映しだされている。ハンブルク空港に着陸したルフトハンザ航空の機内で

“天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった”

機内のBGMが呼び起こす,当時大学生だったワタナベの回想。直子と再会し永別するまでの1968年から70年にかけての時期を描いた作品であるが,物語は,神戸を舞台として,直子と出会う高校2年にまで遡る。

この作品も「されど われらが日々-」と同じく,永別と旅立ちが,数多くの“手紙”によって語られていく。とりわけ,ワタナベが毎週書く“長い手紙”と直子の返信が織りなす情景が印象的である。

“その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き,レイコさんにも手紙を書き,緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き,家の机に向って膝に「かもめ」をのせながら書き,休憩時間にイタリア料理店のテーブルに向って書いた。まるで手紙を書くことで,バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだった”

「ノルウェイの森」の舞台は,1949年(昭和24年)に生まれた村上の大学時代と重なる。1953年に駒場の学生となり1960年に本郷の修士課程を了えた柴田翔とは10年程のひらきがあるものの,当時の学生運動との“ポジション”の取り方を,ワタナベと緑の言葉に託して告白している。

スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビイ」を最高の小説と好むワタナベであるが

“1968年にスコット・フィッツジェラルドを読むというのは反動とまではいかなくとも,決して推奨される行為ではなかった”

“彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫,あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった”(以上「ノルウェイの森(上)」

読書傾向において異次元ぶりを示すワタナベは,級友たちと話がかみあわず,一人黙々と自己の領域で読書をつづける。

一方,フォークソングのクラブで,「資本論」を読まされることになった緑。“読んだけど何もわかりませんでした,ハイっ”との素直な回答に対し,メンバーからは“問題意識がない”との批判にさらされる。その集団の欺瞞性について,緑はワタナベにぶちまける。

“そりゃ私そんなに頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えているのは庶民だし,搾取されているのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉をふりまわして何が革命よ,何が社会変革よ!”

“そのとき思ったわ,私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって,新入生の女の子を感心させて,スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ,あの人たち”

“みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしょうがなくてビクビクして暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで,同じような言葉をふりまわして” (以上「ノルウェイの森(下)」

節子にとって旅立ちの誘因ともなった“自我の不存在”であるが,自己の裁量で共同体との立ち位置をはかるワタナベと緑に,葛蔓となって“からみつく”ことはなさそうである。

(つづく)

文:穂積 薫


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