霧島,雲仙とともに,日本初の国立公園として“瀬戸内海”が指定されたのは,およそ90年前の1934年(昭和9年)3月。ただし,指定区域は備讃瀬戸を中心とする小豆島から鞆の浦に至る区域で,香川県,岡山県及び広島県の陸域と海域に限られていた(第1次指定)。 
その後1956年(昭和31年)5月の第三次指定により,海域が紀淡海峡から関門海峡まで拡張され,現在の瀬戸内海国立公園の輪郭を呈するようになった。90万haを超える我が国最大の国立公園は,1府10県にまたがっている。
法律上の定義はさておき,瀬戸内海の範囲を“瀬戸(海峡)にかこまれた内海”と捉え,紀淡海峡(由良瀬戸),鳴門海峡,関門海峡(早鞆(はやとも)瀬戸),豊予海峡(速吸(はやすい)瀬戸)にかこまれた海域(西田正憲「瀬戸内海の発見」)とすることは,語義とイメージが重なりあうのではなかろうか。
この“瀬戸内海”と称する海域に関する認識の成り立ちについて,西田正憲氏は,次の通り述べている。

“日本人が瀬戸内海をひとつのまとまった地域と捉えはじめたのは江戸後期のころであり,そして「瀬戸内海」という語を用いはじめたのは明治初年のころであり,さらにひとつのまとまり<瀬戸内海>が定着するのはおよそ100年ぐらい前の明治後期のころであったと思われる。このころから,瀬戸内海は,一つの海域と沿岸からなる一地域として,他の地域とは異なる場所になりはじめたのである。われわれが瀬戸内海をある同質の区域と捉えて疑問を感じないのは,このころに定着した瀬戸内海観を基礎としている”
“近世の瀬戸内海は和泉(いずみ)灘,播磨灘,水島灘,備後灘,安芸灘,燧灘,(いつき)灘,伊予灘,周防灘などと呼ばれるいくつかの海にわかれていた。それまでの日本人にとっては,陸域については藩を越えた圏域の概念として畿内,山陽道,南海道,西海道などがあったが,海域は播磨灘や安芸灘や周防灘などのいくつかの灘がつらなっているにすぎなかった”

東西およそ450km,南北15~55km,面積23,203㎢の瀬戸内海を構成する海域のなかで,4,009㎢と最も大きい海域が伊予灘。愛媛県,山口県及び大分県に囲まれたこの海域の水面下で,未だ国立公園の指定を受ける前の1941年(昭和16年)から終戦まで,それぞれの“来るべき日”に備えて訓練を積んでいた若きサブマリナー達がいた。
伊予灘の南端,佐田岬半島。全長40km,最大幅6.4km,最小幅0.8kmの日本一細長い半島のほぼ中間に位置する三机(みつくえ)湾。この人目につきにくい静かな海は,オアフ島真珠湾に地形が類似していることなどから,1941年(昭和16年)3月から,22名の特殊潜航艇乗員の訓練地となった。この中から10名が,同年12月8日に真珠湾奇襲攻撃に出動し,9名は再びそれぞれの故郷の土を踏むことがなかった。
最年長29歳の佐々木直吉 一曹(艇付)は島根県出身。最年少の広尾彰 少尉(艇長)は佐賀県出身の22歳で,前年に海軍兵学校を卒業したばかりだった。

“広尾彰は,憧れの海兵生徒になっても,帰省すると,すぐ母を膝枕にして寝ころび,江田島の生活や遠洋航海時などを,いかにも楽しそうに佐賀弁で話した。寝る時も,甘えて母の寝床に潜り込んできた”

まだ甘え足りてはいなかったであろう広尾少尉は,次の言葉を残して出撃していった。

“最後に臨み何物をも申上ぐべき言辞は持ち合はず,今日までご養育下されし,御両親の生々しき御教訓を海軍少尉まで育て給ひし 御上の正しき清き心を心として勇ましく正しく任に就きたるものと確信御安心下さい。”(牛島秀彦「九軍神は語らず」)

当初,山本五十六連合艦隊司令長官は,奇襲攻撃後の特殊潜航艇の収容見込みがないとして,用法を却下した。更に収容方法の研究を重ねるも,山本長官は確実性がないとして,これも肯んじなかった。黒島亀人連合艦隊先任参謀は,収容方法と生還可能性を具して,山本長官へ具申。

“長官は黙して答えず,黒島参謀は,同様の具申三回目に長官の暗黙の承認を得た”(防衛庁防衛研修所戦史部「戦史叢書 潜水艦史」)

広島出身で自らも1942年(昭和17年)海軍予備学生として予備少尉に任官した阿川弘之は,予備学生時代の青春像を“春の城”に描いている。

“耕二は智恵子に,異性としての興味を持つてゐた。彼は智恵子の,地味にお下げにした髪の形が好きであつた。化粧品の匂ひのしない,何度か偶然のやうにして嗅いだ,素肌の清潔な匂ひが好きであつた。彼女を混へて賑やかに話してゐる事は楽しかつたし,冗談を言はれたり,わざと意地の悪い事を言はれたりすると,それがとても嬉しかつた”

戦地の耕二へ宛て,智恵子からの最後となる便りが届く。

“智恵子の手紙には綿々と,長々と,そんな事が認めてあつた。「お帰りを待つております」と言つてしかし,智恵子は本当に自分が近いうちに広島へ帰つて来ると信じてゐるのであらうか。沖縄が失陥すれば米軍の次の上陸地点は必ず支那大陸か,直接本土かへ向けられる筈で,どちらにしてももう生きて帰る機会は殆ど失はれたと彼は思つてゐた。彼女の手紙に耕二は返事を書かなかつた”

耕二は戦地で生き延び,智恵子は広島駅裏の練兵場で8月6日午前8時15分を迎える。

伊予灘の静かな漁村にもサブマリナー達の淡い青春があった。ある遺族宛には,三机でのロマンスを綴った信書が届き,軍神である前にひとりの青年としての側面を知ることになる。
1965年(昭和40年)8月九軍神の遺族たちが集まり丘の上から夕陽に映える三机湾の海の色を心にとどめた。遺族訪問の1年後“大東亜戦争九軍神慰霊碑”が建立された。(牛島秀彦「九軍神は語らず」)

三机から鎮守府 呉に向けて針路をとる。青島,由利島を経て,多島美を彩る忽那(くつな)諸島へ。標高282m“伊予富士”が象徴的な興居(ごご)島を過ぎると安芸灘に至る。三机とともに伊予灘の境に位置するこの島にも,サブマリナー達の慰霊碑がたたずむ。“伊號第三拾三潜水艦慰霊碑”
1942年(昭和17年)6月神戸三菱造船所で竣工された基準排水量2,198t,全長108.7mの伊号第三三潜水艦は,2回の沈没事故に遭遇する。同艦の数奇な運命については,吉村昭“総員起シ”に詳述。よって以下同作品に基づき記述する。
呉を出港し,ソロモン諸島方面の作戦に従事。整備,補給のため入港したトラック島泊地で,同年9月に1回目の沈没事故にみまわれる。修理作業中に艦内に海水が侵入して艦尾から水深36mの海底に。殉職者数33名。
引き揚げ後,呉海軍工廠での約1年2カ月に及ぶ修理を経て,1944年(昭和19年)5月に連合艦隊へ引き渡される。

“しかし,「伊号第三三潜水艦」は,それからわずか半月後にまたも事故を起こして沈没してしまったのである。その事故の正式記録はなく,ただその事故の概略として,左のような文字が残されているだけである”
1.事故発生年月日,場所
昭和十九年六月十三日 伊予灘由利島附近
2.事故の概要
本艦ハ,昭和十七年九月十六日トラックニ於ケル沈没後引キ揚ゲラレ呉ニ回航,大修理ノ後完工ヲ見,第一一潜水戦隊編入前ノ単独訓練ノ目的ヲ以テ伊予灘ニ出航セリ。
而ルニ昭和十九年六月十三日〇八四〇,急速潜航ノ際右舷機械室給気筒ヨリ浸水セシタメ沈没セリ。司令塔内ニイタル者ノウチ十名ガ艦橋ハッチヨリ脱出セシガ,救助セラレタル者僅カニ二名,艦長以下乗組員一〇二名殉職

生存者のうち1名は,海軍兵学校卒業(第72期)間もない22歳の小西愛明 少尉。

“小西は,新鋭潜水艦に転属になったこととすぐれた艦長のもとで任務につくことに大きな喜びを感じていた”
“訓練海面は伊予灘で,(中略)六月十二日午後,「伊号第三三潜水艦」は,愛媛県松山市に近い郡中港に入港”
“翌六月十三日,「総員起シ」の号令で午前六時起床。空は晴れ,海上は穏やかだった。最後の訓練日なので,乗組員たちの眼には明るい輝きがやどっていた”
“艦は,伊予灘を西方に針路をとった。右手に由利島,左手に青島が近づいてきた。その両島間の海域が訓練海面に当てられていた”

伊予灘のほぼ中間,由利島と青島の間,水深約60mの海底に,同艦は9年間の眠りにつくことになる。沈没事故の原因は,艦内に残された複数の遺書によって明確となる。

“午前八時四十分急速潜航一直ヨリ始メル。コノ時機関左舷給気筒頭部弁閉鎖確実ナラズ,コレヨリ急速ニ浸水,電動機室ハッチ閉鎖スルモ後部兵員室伝声管ヨリ浸水多シ,アラユル努力ヲスルモ刻々ニ浸水ス”

事故発生から10時間経過後の艦内の様相も書き留められていた。

“一六四五,大久保分隊士官号令ノ下ニ皇居遙拝,君ガ代,万歳三唱”
“一八〇〇,総員元気ナリ。総テヲツクシ今?タダ時機ノ至ルヲ待ツノミ。ダレ一人トシテ淋シキ顔ヲスル者ナク,オ互ニ最後ヲ語リ続ケル”

小西少尉もまた最期を覚悟していた。

“艦長は,椅子に腕を組んで坐り眼を閉じていた。その姿には,すべての策がつきた失望がにじみでていた”
“前夜見上げた星の光を思い浮かべた。一時間ほど前郡中港を出港してからながめた瀬戸内海の美しい風光も頭によみがえった。”
“二十メートルほど上方には,初夏の陽光が注ぎ,海面には漁船がうかんでいる。島の緑は濃く,四国の山並もその輪郭を鮮やかに浮かび上がらせているだろう”
“人間というものが,ひどく無力なものに感じられた。瀬戸内海のまばゆい風光は,わずか二十メートル上方にひらけている。そこには潮の匂いをふくんだ空気があり,光がある”

沈没地点から興居島御手洗(みたらい)海岸の沖まで,海面下を曳航されてきた伊号第三三潜水艦は,1953年(昭和28年)6月21日午前8時艦首部が浮上し,9年ぶりに風光をあびる。同日正午近くには愛媛県知事の参列の下,簡素な慰霊祭が行われた。
小西愛明ともう一人の生存者 岡田賢一は,二十三回忌となる1966年(昭和41年)6月14日御手洗海岸において遺族とともに慰霊祭を開催。由利島と青島との間、伊予灘の海面に花束を投じた。

高松駅から松山駅を経て宇和島駅に至る予讃線。郡中(ぐんちゅう)港の所在する愛媛県伊予市の向井原駅から伊予長浜駅までの間は,伊予灘沿いに列車が走行することから“愛ある伊予灘線”とも称されている。海面を間近に望む下灘駅は,茜色の夕陽に染まる光景が旅情を誘い,時間帯によっては,遠方からの来訪者でにぎわいをみせる。観光列車“伊予灘ものがたり”が,松山と伊予大洲・八幡浜の間、主に週末に4便運行されており,アテンダントのもてなしにより,すこし贅沢に特別な時間と空間を過ごすこともできる。

真珠湾奇襲攻撃10名の出撃者のうち唯一の生存者についてもふれなければならない。
山崎豊子の遺作“約束の海”は,広尾彰少尉と海兵同期(第68期) 酒巻和男 少尉(徳島県出身)の生き方をモチーフとした長編小説。第1部で未完となったものの,山崎の構想をもとに,編集スタッフが構成した第2部以降では,三机湾で,真珠湾生還者の父親と潜水艦乗組自衛官の主人公が交わす“約束”が,ストーリーを仕立てていく。

“「そうだ,この日本の海を,二度と戦場にしてはならないのだ。それが俺とお前だけの約束にならぬように,信念を貫き通せ」 三机の湾に向かって,花巻朔太郎は大きく頷いた”
“今,父はいないが,三机で約束した「戦争」と「平和」に思いを致し,赴任を決意する”

5時51分 松山発 宇和島行。高野川駅から喜多灘駅の間を,由利島と青島の島影にゆっくりとよりそい,早朝の静穏な伊予灘の風光を映す、よそゆきの顔をしない“鈍行列車”は,伊予長浜駅から“約束の海”をはなれ,肱川を河口から遡行していく。ひと駅ごとに伊予大洲に通学する学生服の姿が車内をうめていく。若桜たちの青春の日々を乗せて。

文:穂積 薫

主な参考文献
西田正憲「瀬戸内海の発見 意味の風景から視覚の風景へ」中央公論新社 1999年
牛島秀彦「九軍神は語らず 真珠湾特攻の虚実」光人社 1999年
防衛庁防衛研修所戦史部「戦史叢書 潜水艦史」朝雲新聞社 1979年
阿川弘之「阿川弘之全集 第一巻」新潮社2005年
吉村昭「総員起シ」文藝春秋1972年
山崎豊子「約束の海」新潮社 2014年
池田清「日本の海軍(上)(下)」朝日ソノラマ 1987年
獅子文六「海軍」中央公論新社 2001年

なつかしい未来への道すがら ~ 伊予灘 二つのいしぶみ“佐田岬半島三机から興居島御手洗への旅”

<利用公共交通機関: 四国旅客鉄道(予讃線),伊予鉄南予バス, 伊方町地域巡回バス,伊予鉄道(市内・郊外電車 高浜線),ごごしま(高浜・泊航路)>

・JR松山駅5:51発 “宇和島行(伊予長浜経由)普通列車” → 八幡浜 8:09着

~車窓(高野川~喜多灘):伊予灘の風光、由利島と青島の島影、肱川河口部

・八幡浜駅前 8:15発“伊方町役場前行”→ 伊方町役場前 8:54着/9:04発“三崎支所前行”→ 瀬戸支所前 9:53着 →(三机湾沿いに徒歩25分)須賀公園“九軍神慰霊碑”
・瀬戸支所前 11:10発“伊方町役場前行”→ 伊方町役場前 11:49着 →(徒歩2分)“ひろせ”(昼食)
・伊方町役場前 12:30発“八幡浜駅前行” → 八幡浜駅前13:09着
・八幡浜 13:26発“特急宇和海”→ 松山 14:21着 →(徒歩5分) JR松山駅前14:30発“1番環状線”→ 古町 14:36着/14:49発“高浜行” → 高浜 15:06着 →(徒歩3分) 高浜港15:25発“泊行”→ 泊港 15:35着 →(徒歩25分)御手洗“伊號第三拾三潜水艦慰霊碑”
・泊港 17:20発“高浜行”→ 高浜港 17:30着 →(徒歩3分)高浜17:43発 “横河原行”→ 古町 18:00着/18:07発“2番環状線”→ JR松山駅前 18:12着

※(注)行程確認日:2023年6月20日
各公共交通機関の運行日及び時刻、並びに各店舗等の営業日及び時間につきましては、事前に確認願います。また徒歩時間は目安です。


獅子文六“海軍”~もうひとつのBildungsroman
阿川弘之は“春の城”の作中,主人公 小畑耕二の1944年(昭和19年)1月の日記で“映画も小説も皆つまらない。「海軍」といふ小説が済むと「陸軍」といふ小説が出る”と言わしめています。この“海軍”は,岩田豊雄(本名)名義により1942年(昭和17年)7月から同年12月まで朝日新聞に連載された獅子文六の小説。九軍神の一人 横山正治 中尉(海兵67期)と鹿児島県立第二鹿児島中学校の同級生である画家志望青年の挫折と成長のストーリーとして,若桜の青春を描いています。
この作品を発表して後,獅子文六は1945年(昭和20年)12月から妻の実家がある愛媛県北宇和郡岩松町(現 宇和島市津島町岩松)で2年ほど生活することになります。東京での生活難,住宅難に加え,“海軍”の作者として戦争責任追及をおそれたためとも。この隠遁生活のおかげで“てんやわんや”“大番”などの代表作が世に出ることになったともいえます。


 

 

 


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